亡き妻の声が、記憶から消えていく。死者が見える男が最愛の二人に会うため、最後に選んだ場所とは――

道端の枯れ花

家の中は、忌々しいほど静まり返っている。

居間の真ん中に座り込んでいる。家具は片隅に押しのけられ、椅子がひとつ、倒れた場所にそのまま転がっている。慌てて押しのけすぎて、倒してしまったものだ。割れた花瓶の破片が床に散らばっている。そのひとつが、手元から数センチのところにある。

エイミーが見たら、慌てふためくだろう。目を閉じて想像する。部屋の入り口で息を呑む声。ストッキングの足がぱたぱたと駆け寄る音。破片をつまみ上げるとき、フローリングに触れるかすかな音。彼女の声——動かないで。私が片付けるから。もっと気をつけて。本当に、もっと気をつけて。指を切ったらどうするの。クララが走り込んできたらどうするの。

心の中で響く彼女の声は、どこか違っている。抑揚も、声色も、もう薄れ始めている。エイミーの声。クララの声。あとどれほどで、記憶から完全に消え去ってしまうのだろう。あとどれほどで、本当は似ても似つかない昔の動画を再生し、似ていると自分に言い聞かせて、それでようやく頭の中に二人の声を響かせるしかなくなるのだろう。

目を開け、目の前に開かれている古ぼけた書物を見る。蜘蛛の巣のように細い筆跡に、水で滲んだインク。かろうじて読める程度だ。空気には、かすかにアカシアの香りが漂っている。本にはこう記されている。香りこそが要なのだと。アカシアの香りが死者を霊気の彼方から引き寄せなければ、死者は決して語らないのだと。

違う。

それが間違いだと知っているのは、僕には死者が見えるからだ。死者の声が聞こえるからだ。物心ついた頃からずっと、彼らはそこにいた。ひらりと横切り、耳元で囁く。アカシアの香りを必要としたことなど、ただの一度もない。

それなのに、この三カ月間、僕は彼らに呼びかけ続けている。妻に。子供に。懇願し、哀願し、怒り狂って叫ぶ。しるしを。どんなものでも。慰めを。どんな形でも。切羽詰まって書物に縋り、アカシアに縋る。それでも返ってくるのは沈黙だけだ。忌々しい沈黙。

手元のガラスの破片に目を落とす。

また上の空だったでしょう? エイミーが笑う。いつも夢を見て、いつも気を散らして。そのうち怪我するよ。

破片の縁を指でなぞる。彼女のセラミックナイフと同じくらい鋭い。誕生日に買ってやった、あのナイフだ。白い刃をプラスチックと間違えてクララが手にしないよう、戸棚にしまってある。

あなたも使っちゃダメだからね、と彼女は言った。お願い

僕のことを。家族のことを。それが彼女の性分だった。鍵を二度確認する。コンロを二度確認する。クララのチャイルドシートを二度確認する。自分で確認した後でも、必ずもう一度。クララや僕がつま先をぶつけて声を上げただけで、エイミーは飛んでくる。

彼女はいつだって、飛んできてくれた。

破片を手に取り、親指と人差し指できつく挟む。腕に刃を押し当てて引く。血が滲み出てくる。

「エイミー?」

もっと深く切る。血が、役立たずの本の汚れたページに滴り落ちる。

「エイミー? 君が必要なんだ」

忌々しい沈黙。いつも沈黙ばかりだ。

***

二人の墓の前にしゃがみ込み、語りかける。沈黙を埋めるためだけに話していると気づいたところで、口を閉じる。墓石に触れる。冷たい。いつだって冷たい。晩冬の日差しが照りつけている今でさえ。

花は供えていない。枯れ始めたら、すぐに片付けた。墓の傍の枯れ花は、どこか間違っている。置き去りにされ、忘れられたようで。ここにある何も、忘れ去られてはならないのだ。

毎週、新しい形見を持ってくる。小さなもの。意味のあるもの。新婚旅行のフラン硬貨。最後の家族旅行で拾った貝殻。クララが初聖体の日に着たドレスのボタン。エイミーが子供の頃に集めていた猫目石のビー玉。壊れないものばかりだ。記憶もそうあるべきだ。

週に二度、ここへ来て二人に話しかける。二人には聞こえていないと分かっている。でも、他の者たちには聞こえていてほしい。他の幽霊たちだ。墓の間をすり抜けていく彼らが見える。彷徨っている。どこまでも彷徨い続け、あの世への伝言を託せる誰かを探している。

かつては、僕がその誰かだった。墓地に足を踏み入れただけで、死者たちに取り囲まれたものだ。今では、彼らは僕を大きく避けていく。僕が自分の嘆願を抱えて来ると知っているからだ。妻を探してくれ。娘を探してくれ。会いたいと伝えてくれ。話がしたいと伝えてくれ。

僕が彼らに何かを望んでいるから、彼らは僕と関わりたがらない。ここに座り、妻と子に話しかけながら、その言葉で影たちの心が溶けるようにと祈る。一柱でも近づいてきて、「引き受けよう」と言ってくれるようにと祈る。誰も来ない。彼らは距離を保ち、沈黙のまま彷徨う。いつだって沈黙。

***

呼び鈴が鳴る。ガレージの壁越しに聞こえる。誰かが玄関先に立っている。誰かが訪ねてきた。無視して、車の作業を続ける。

三カ月かけて、作業はほぼ終わった。フロントガラスは交換済み。エンジンも修理済み。凹みも叩き出した。

ひとつだけ、直せないものがある。助手席の血だ。もう赤くはない。錆びた茶色に褪せている。それでも、血だ。間違いなく、血だ。

保険会社は、この車を僕に渡したがらなかった。損傷が酷すぎると言う。保険金は支払ったのだから、廃車にさせてほしいと。僕は契約書を取り出し、数百ドルで残骸を買い戻せる条項を指し示した。せめてシートだけは外させてほしい、と彼らは言った。誰も、あれを見る必要はない、と。だが僕にはある。

「こんにちはー!」と声がする。

車の前にしゃがんだまま、割れたヘッドライトを交換し続ける。ドアが開く。

「どなたかいらっしゃいませんか?」

知っている相手ではない。声で分かる。このまま知らんぷりを続けようかとも思うが、子供じみている。立ち上がり、ジーンズで手を拭く。

「何の御用ですか?」

小太りの男だ。セールスマン特有の、必死でいやに愛想のいい笑みを浮かべている。話させておく。何を言っているのか、何を売りたいのか、さっぱり分からない。ただ言葉が、ひらひらと通り過ぎていくだけだ。

「結構です」と僕は言う。

男が僕をじろりと値踏みする。彼の目に、僕はどう映っているのだろう。無精髭。どんよりした目。くたびれたブルージーンズ。油染みだらけのTシャツ。酔っ払いか。薬中か。仕事も続かないのか。平日の真っ昼間に家にいる理由も、それで説明がつく。それでも、まずまずの家だ。そして彼も必死なのだ。

男が車の前を、こそこそと回り込む。

「いい車ですね」と男は言う。

いい車ではない。事故の前でさえ、実用に足るだけの車だった。エイミーはもっと新しい車を欲しがっていた。

豪華なのはいらないの、と彼女は言った。ただ、安全なのがいい。クララのためにね。

BMWは安全だって聞いたよ、と僕は言った。君はもうロースクール生の妻じゃなくて、弁護士の妻なんだ。君にはBMWが必要だ。

彼女は笑った。パートナーになれたら買ってね、と言った。僕も笑って合わせたが、内緒で電話をかけ、ディーラーを回り、BMWかメルセデス、どちらか彼女が安心できる方を買うつもりでいた。クリスマスプレゼントにするはずだった。

クリスマス。

三カ月前のあの日、僕たちがしていたのは、その買い物だ。モールは混み合い、客はみな苛立っていた。出るのが予定より遅くなり、外はとっくに暗かった。駐車場には車がなおも続々と流れ込み、空きを求めてぐるぐる回っていた。一人の女性が、僕がトランクに荷物を積むのを見ていた。出るのかと聞くので、出ると答えた。僕が車に乗り込むと、エイミーはまだ開いた後部ドアのそばに立ち、昼寝を逃してぐずるクララをなだめていた。

ねえ、あの人、スペースを待ってるわよ。

あら、ごめんなさい。

彼女はクララのチャイルドシートのベルトを締め、助手席に乗り込んだ。僕はバックで出ようとした。

待って! もう一度、確認を——彼女は後ろを振り返り、場所を待っている車を見た。いいわ。大丈夫よ、きっと。

「レストアしてるんですか?」セールスマンの声で記憶から引き戻され、思わず男を睨みつけてしまう。そんなつもりはなかった。だが一瞬、エイミーの声がはっきりと聞こえていた。もう消えた。

「ええ」と僕は言う。「レストアしています」

「はあ」

男は何とか会話を長引かせようと、次の言葉を探している。僕は身をかがめ、ライトの調整を続ける。男はしばらくそこに突っ立っていたが、やがて沈黙に耐えかねて、出ていった。

***

一週間後、車は公道を走れるようになった。かろうじて、ではあるが。それでも、行きたい場所まではたどり着ける。どの部品も欠けておらず、警察に止められる心配もない。

あの道端だ。

車を路肩に寄せる。市街のすぐ外れ。ここは暗い。右手には雪がまだらに残る、何もないとうもろこし畑。左手には、殺風景な片側一車線の道路が伸びている。車の前には、傾いた十字架が枯れた花に覆われている。倒れたブリキ缶にも、枯れた花が挿してある。僕が置いたものじゃない。誰が置いたのかも知らない。赤の他人だろう。悲劇の話を聞いて、この場所に印をつけたくなったのだ。むしろ、やめてほしかった。

あの惨めな慰霊の品などなくても、それが起きた場所は分かっている。目印がなくても、正確な位置など知っている。あの光景は、記憶に焼き付いているのだ。

クリスマスショッピングの帰り道。暗い田舎道。車内は静かだった。心地よい静けさ。穏やかな静けさ。クララは眠っていて、僕とエイミーは起こさないように気を遣っていた。雪が降っていた。初雪だった。ひらひらと舞い散る雪を見つめ、エイミーは微笑んでいた。

前方をピックアップトラックが走っていた。リフォーム会社の車だ。荷台には板や支柱、はしごが無造作に積み上げられている。

あれ、危なそう、とエイミーは言った。ねえ、ちょっと……

僕の足は、すでにアクセルから離れていた。車はトラックから離れ、舞い散る雪の向こうに、テールランプだけが見えるほどまで下がった。

彼女は微笑んだ。ありがとう。

心得てるよ。

彼女は手を伸ばして僕の脚をぎゅっと握り、それからまた、雪を眺める静けさの中に戻っていった。

さらに一マイル。いつの間にかトラックに近づいていたが、まだ十分な車間距離はあった。彼女は何も言わなかった。その時、見えた。道路の反対側を歩く人影。赤いロングジャケットを着た女。

僕は目をやった。幽霊だ、と自分に言い聞かせた。まず間違いないと確信していた。だが、もし間違っていたら、立ち往生している誰かを見捨てることになる。すれ違う瞬間、サイドウィンドウ越しに目を凝らすと——

前を見——!

彼女の言葉は、それだけだった。僕ははっと前を向いた。はしごが飛んでくるのが見えた。よけようとハンドルを切った。雪で濡れた路面で、車が滑った。対向車。ライトが見えた。衝突の、潰れる音が聞こえた。それから……沈黙。

三カ月後の今、道端に座っていて、彼女の声を聞く。

いつも夢を見て、いつも気を散らして。そのうち怪我するよ。

ああ、僕は自分を傷つけた。想像し得る限界を、はるかに超えて。

車を降りる。ホースはトランクにある。排気管に取り付け、助手席の窓から車内へ引き込む。車内に戻り、エンジンをかける。

長くかかるのだろうか。分からない。沈黙の中に沈んでいく。一瞬、沈黙が破れる。一台の車が隣で速度を落とす。運転手が車内を覗き込む。居眠りだと思ったのか、エンジンを吹かして去っていく。沈黙が戻ってくる。そして、意識がほどけていく……

***

目を覚ます。エンジンが止まっている。燃料計を確かめる。まだ半分ある。エンジンをかけようとするが、かからない。ダッシュボードに突っ伏す。打ちのめされて。

その時、何かが聞こえた。鳥の鳴き声だろうか。フロントガラスの外を見る。霧が深くて、ほかには何も見えない。

車を降りる。ドアの蝶番がきしむ。ドアを開け放したまま、車の前に回り込む。あの十字架は、まだそこにある。だが、新しくなっている。花は白くみずみずしく、下の缶はまっすぐ立っていて、ひなぎくでいっぱいだ。

クララはひなぎくが大好きだ。思わず微笑んでしまう。花のところへ歩いていく。周りにも、もっと散らばっている。さらに畑の方へ、点々と続いている。

花を追い、霧の中をよろめきながら進む。あるのは霧だけだ。畑一面に流れる霧。足元を見る。花が踏みつぶされていく。それでも進み続ける。花を追って。

また、音がする。鳥の鳴き声ではない。まるで……

「エイミー?」と呼びかける。「クララ?」

声が返る。もうひとつ。

沈黙が終わる。